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横浜地方裁判所 昭和36年(わ)2309号 判決 1962年5月07日

被告人 中川俊介

昭一六・二・三生 無職

主文

被告人は無罪。

理由

〔一〕  本件公訴事実の要旨は、

被告人は

第一、昭和三十六年十二月十日午後一時頃、横浜市神奈川区六角橋三五二番地の自宅において、母中川チヨウ(当四九年)が、被告人を訓戒してもらうため神奈川警察署勤務神奈川県巡査小林修を連れて来たのを認めて立腹し、同女に対しその顔面を手拳で殴打する暴行を加え

第二、その際偶々同所においてこれを目撃した右小林修巡査(当二六年)から右暴行を制止し、かつ、逮捕されようとしたのに対しこれに憤激し、右小林巡査に組み付き、同巡査の拳銃を奪取しようとする等の暴行を加え、もつて同巡査の右公務の執行を妨害し

たものである。

というのである。

〔二〕  本件において取り調べた証拠によると

被告人は

第一、昭和三十六年十二月十日午後一時頃横浜市神奈川区六角橋三五二番地の自宅において、母中川チヨウ(当四九年)が被告人の非行を説諭して貰うため連れて来た神奈川警察署勤務神奈川県巡査小林修(当二六年)をみて、自己を逮捕に来たものと考え逃げ出そうとした際前に立塞がつた同女に対し、その顔面を手で殴打して乱暴を加え、

第二、その際、玄関からこれを目撃し「おふくろさんに何をするのだ」といいつつ、急いで土足のまま上つて来て、被告人に手をかけた同巡査と格斗し、その間に同巡査の拳銃を引つぱるなどの所為をしたこと

が明らかである。

判示第一の所為は外形的には暴行罪の条件を具えているし、第二の所為については公務執行妨害罪が成立するかのようである。しかし、当裁判所は、いずれの所為も違法性を阻却し、犯罪を構成しないものと考える。

以下に説明することとする。

〔三〕  第一の行為について。

一、右第一の行為は、同居の子が母親に対して犯した乱暴で、その事実だけを他の一切の事情から切離して観察すれば、暴行罪の要件を具備しているようにみえる。しかし、同居の親子間において犯された行為は、同様の行為が非親子間において犯された場合には一律に犯罪を構成する程度のものであつても、より強い刑法の保護に値する事案と刑法の保護に値しない事案があるもので、その判断は特に慎重にされなければならない。子が親に対して犯した行為であるということ自体によつてだけ評価すべきではない。刑法は犯されたすべての行為を処罰しようとするものではなく、刑法の保護に値しない行為は違法性を阻却し犯罪を構成しないものであるから、蓋し当然のことといわねばならない。一般に「法律は家に入らず」、といわれるが、これはある行為が家庭員の精神的きずなと家庭の平和を破綻させ健全な親族共同生活の維持を困難にする程度のものである場合、すなわち家庭内部の事件として止めることが家族の利益に反し、しかもこれを放置することが社会共同生活の秩序と正義に悖る場合のほか、国家権力は敢て家庭内の出来事に干渉しないという趣旨である。刑法の領域においても同様の場合がないではない。本件のように一見暴行罪の要件をみたすようにみえる行為であつても、手段方法程度、発展の見込のほか、それが累行された行為のなかの一事象なのか、計画的なものか偶発的なものか、発生の契機・事件の経過その後の状況および加害者被害者のあいだの身分関係、生活関係、加害者の性格・習癖素行などすべての事情を総合して観察し、右の趣旨に反しないものであれば、刑法の保護を要求する価値ある法益の侵害があつたとはいえず、この場合違法性を阻却し犯罪を構成しないものである。このような程度の行為を不問に附するのは、犯罪の検挙、起訴、不起訴の問題ではなく、刑罰法の解釈に関する問題で、これを不問に附することが現行刑法の精神と現代法律思想に適し、法解釈の原理に適するものである。なお、昭和二十二年の刑法改正によつて暴行罪の法定刑が引き上げられ、かつ非親告罪となつたが、これは、暴行はすべて罪として処罰することとしたものではなくて、社会的に無視できない程度の暴力が親告罪であることによつて不当に処罰を免れることがなく、適正な法の適用が行われるようにするためであることはいうまでもない。

二、なお、刑法に、右の趣旨を違法性阻却事由として直接規定した条文はないが、自己の財産権をみずから侵した場合や、親族間の財産犯に対する態度にこれを窺知することができるのである。

すなわち、

(イ)自己所有の非現住建造物等失火、同損壊によつて公共の危険を生じさせたときは処罰―現住建造物、他人所有の非現住建造物の失火・損壊と同じく―する(刑法第一一六条第二項、第一一七条第一項後段)こととしながら、自己所有の非現住建造物放火でも公共の危険を生じないときは罰しない(同法第一〇九条第二項)としていることや、(ロ)自己所有物についても差押を受け物権を負担し又は賃貸などしてある物についての放火、溢水による侵害、損壊・傷害は他人の物に対する場合と同じように処罰され(同法第一一五条、第一二〇条、第二六二条)、(ハ)窃盗および強盗の罪について、自己の財物であつても他人の占有に属し又は公務所の命により他人が看守したものであるときは他人の財物と看做すとし(同法第二四二条)、(ニ)自己の物であつても公務所から保管を命ぜられた場合にこれを横領したものは他人の物の横領と同じく処罰される(同法第二五二条)などの規定は、その影響が自己一身に止まる場合は侵害される物の価値の大小に拘わらず国権により干渉しないが、社会秩序の維持に重大な支障がある場合は行為者を非難しようとするものである。

(ホ)直系血族同居の親族等の間の財産犯(窃盗、詐欺、恐喝、賍物に関する罪)について刑を免除するとしている(同法第二四四条、第二五五条、第二五七条)。この場合勿論犯罪は成立する。この規定は親族間の内部的事実に対して国権が干渉することは適当でないという刑事政策的見地から刑を免除するものである。しかし、本件を解するにあたつて、当裁判所は、現行法ではいろいろの事情が親族内部で処理しきれない程に重大で、また社会的影響も無視できない程の事件さえも刑が免除されるという点を無視できないのである。(もつとも改正刑法準備草案では直系血族同居の親族等の間の財産犯を親告罪とし、更にそのうち所定の近親者について刑を免除することができる―同草案第三五一条、第三五九条、第三六五条―とされている)。それ程の事案であつても前記親族間においては刑が免除されるのに、刑法が暴行罪にこのような規定を置かないのを、軽微で、家庭の平和、親族共同生活の秩序維持に影響がなく、勿論社会的に危害のない事案についてまでも一律に刑法上の保護をしようとしているものと解することはできない。むしろそのような場合には犯罪自体が成立しないものと解することが刑法の精神に適うと考えるのである。(ヘ)親族が犯人蔵匿・証憑湮滅の罪について刑を免除することができる(刑法第一〇五条)とされている。刑法はこのような国家の作用を妨害する重大な行為についてさえ、これは人情の自然であり道義的に責めることができない場合があるとして、敢て譲歩しているのである。これは上叙の諸規定から窺えると同様に、親族の行為は刑法が非親族間の行為とは違つた観点から評価していることを教えるものである。

(ト)ただ、本件の解決にあたつて、刑法が同一態様の犯罪であつても尊属に対して犯された場合は他の場合より重い刑を定めている(尊属殺人同法第二〇〇条、尊属傷害致死同法第二〇五条、尊属遺棄同法第二一八条第二項、尊属逮捕監禁同法第二二〇条など)ことは重要である。ある罪が卑属から尊属に対して犯されたとだけきいた場合、これをそうでない事案より非人間的、非人倫的行為と考えることは我々共通の倫理観と考える。しかし事案を詳細に究め、加害者である卑属に、より同情に値する多くの点が明らかになるに従つて、非親子間における同種の犯罪より重く量刑することを躊躇し、一般世人も亦同様の評価をする場合があるということは、尊属に対する罪であるということ自体によつて重く処罰することが当然の事柄ではなく、これだけで事案を解決できないことを物語るものである。のみならず同様の犯罪が尊属から卑属に対して加えられた事案の詳細を知るに及び、前の場合と同じ程度の衝撃をもつて、時としてはそれよりも強く非人間的非人倫的として非難を加えてあやしまない場合があることは、現代の倫理観人間観が、尊属に対する犯罪だけに特に重い法定刑を定めることを不当とすることの表われであり、従つてこれ等の規定が(その制定当時はともかく)現代的意義を失つたことにほかならない。改正刑法準備草案には、卑属の尊属に対する罪を重く処罰する規定はないのである。当裁判所は、親に対する犯罪であるということ自体を理由として一般の場合より重く処罰しなければならないとか、違法性の程度が高いとかいう議論に左袒することができないのである。

三、そこで次に被告人の本件第一の行為について〔三〕の一に掲げたすべての事情を斟酌して検討することとする。

四、本件において取り調べた証拠によると

(イ)家族関係等。被告人(二一才)の家庭は被告人が五才位の時に父が死亡し、以来母チヨウ(四九才、神奈川県渉外管理事務所勤務)、姉啓子(二三才、三菱商事株式会社勤務)の三人暮しで、女手一つで被告人等を育て上げた。姉啓子の出来がよかつたせいで、被告人は霞んでみえ、母も一人息子である被告人の将来については殊のほか憂慮していたが、親子姉弟の間柄は円満で感情的な対立のない世間なみの家庭であつた。

(ロ)被告人は昭和三十四年三月高校を卒業してから石油店事務員、肉屋店員、会社雑役夫、薬局店員、洋裁店店員などをしたが昭和三十六年九月頃から家にいてぶらぶらしていたものである。これは被告人が思慮の熟しない世間知らずの一人子の我侭から、物心両面で雇主から高校卒業以上の取扱をうけないことのほか、他人から使われることが気に入らないなどのため一定の職に永つづきせず、ついには就職しようとしなかつたためである。母の心配の種はこの点にあつた。

被告人は身長一五五糎位、小柄で腕力は強くない。粗暴癖はなく、母や姉に暴行を加えるようなことはなかつた。二年位前に姉を殴つたことはあるが世間普通にみる姉弟喧嘩の域を出ないもので、肉体的痕跡を残したり、姉弟間の対立を惹起する程度のものではなかつた。勿論被告人が近隣や他人に暴行傷害を加えたことはなかつた。前科・前歴もない。

本件について取り調べの警察官も被告人が非常にかわいい顔をしていて体も余り大きくないので一見少年ではないかという印象をもつた位で、警察官の取り調べに対しても一般の被疑者と違つて非常に素直で、うそぶくとか反抗的な態度をとるようなことはなかつた。当公廷においてもこれと同様で悪ずれした態度など全くみられなかつた。

不良な交友関係や愚連隊とのつき合いなどはなかつた。

(ハ)本件の発端

被告人は昭和三十六年十一月頃勝手に姉啓子名義の郵便定期貯金二万五千円(元利共)の払戻をうけてキヤバレーなどでひとりで飲食に費消し、本件の発生する直前の十二月九日頃には姉啓子に洋服購入代金一万円を借りたいと申込んで拒絶されると、姉のハンドバツクのなかにあつた通勤定期券と財布をとり上げて返してくれなかつた(被告人の姉に対するこの仕打は親しい間柄であるからこそ起つたものと思われる)。母はこのようなことがこうじて他人の物に手をかけるようなことになつてはと心配し、啓子とも相談し説諭したが、被告人が返してくれないので警察官に説諭して貰うことにした。これは隣組で、手に負えない者があつたから警察に相談するようにとの回覧などがあつたからである。(五、六才の子供でも既に親の手に負えないものであるのに被告人は二十才をすぎている。しかも被告人の家庭は父がなく母・姉と女の多い家庭であることを考えると、母の採つたこの処置は賢明とはいえないが無理からぬ処置であると思う。)母チヨウは昭和三十六年十二月十日午前十一時頃附近の六角橋交番に行つて勤務中の小林修巡査に事情を打明けて被告人の説諭を頼んだ(このときの母の説明は内心に包んだ心配が過度にあらわれてかなり大袈裟に物語られていたようであるし、母の説明を聞いた小林巡査も実際の被告人とは違つた不良じみた被告人を想像していたもののようである。)。母チヨウは小林巡査から被告人が帰つたら連絡するように云われて家に帰つていると、被告人が午後零時三十分頃(教会の礼拝から)帰宅して出かける様子もないので、交番にいつて小林巡査にこれを知らせ、帰宅する途中で隣に居住する実兄宅に寄つてその話をし(啓子も同家に来て聞いていた)、裏口から帰宅し、被告人がいる玄関わきの部屋に通る途中で、台所に続いた玄関をのぞくと小林巡査が玄関に入つて来た。

(ニ)前示第一の行為の経過

被告人は小林巡査が玄関先に来たのを玄関わきの四畳半の硝子障子越しに見つけ、これは貯金を盗み出したりしたことで逮捕に来たものと考え裏から逃出すため奥の六畳の間に向おうとした。その鼻先に母チヨウが立塞がり、その二部屋の境の襖をうしろ手でしめおさえつつ「出ていつてはいけない」といつて被告人をさえぎろうとした。被告人は突然右手で母の顔面を殴り、その打撃によつて右の二部屋境の段になつているところ(六畳の床は四畳半の床より高い)に足をとられてころんだ母をこえて六畳の間に入ろうとするところで小林巡査が被告人の体をつかまえた。(右の認定に反する証人小林修の当公廷の供述、証人小林修尋問調書中の供述記載はのちにのべるとおりの理由で信用できない)

被告人のこのような乱暴は、逃げ路を塞いだ母を排除しようという気持と、母が警察官を呼んだことを直感し、なにも警察官を呼んだり逃げ路を塞いで邪魔しなくてもよかろうにという憤慨の複合した気持による行為のようである。そしてこの乱暴は母チヨウの身体に何の痕跡も残していない。

(ホ)本件を契機として親子間の感情が疎隔していつたり、新らしい家庭の不和が起つたという事情は全くない。母は当初から処罰を求める意思がなく母姉共に公判期日毎に法廷を心配の面持で熱心に傍聴している。

五、以上の事情を総合して明らかなように、前記第一の行為は手による軽度の乱暴で執拗・狂暴・残忍さの片鱗もない。親しく平和な家庭での子ぼんのうな母親と思慮未熟で少し我侭ではあるが粗暴癖がなく、平常乱暴なことをしたことのない息子との間に起つた偶発的な一過性の出来事であつて、親しく気易い間柄であればこそおこつたとも思われる行為である。これまでに母子の間には感情的わだかまりなど全くないし、これを契機とし母子の間柄が険悪化し家庭内が収拾のつかない状態になるなど全く考えられない。本件ののち再び平穏な母子三人の生活が続いているのである。そうすると、子の親に対する乱暴であるとはいつても、家庭の平和や家庭員相互の感情のきずなを少しも破綻させていないし、親族共同生活の維持に危険がない、むしろこれを一回限りの家庭内の一波乱として不問に附することが家族の利益に合致し、また社会秩序の維持の妨げにもならない程度のものというべきであつて、結局刑法上の保護に値しない行為といわなければならない。

そこで公訴事実中第一の暴行の点については違法性を阻却し犯罪が成立しないものである。

〔四〕  第二の行為について

一、(イ) 本件において取り調べた証拠によると被告人は柔道初級の小林巡査と可成りの時間(母チヨウが庭つづきの隣家の実兄宅にいつて実兄を呼んで来るまで)格斗し、小林巡査の拳銃を引張りなどしている。その格斗が可成り激しいものであつたことは格斗の模様によつても、また、小林巡査が右実兄等の手をかりて被告人を取押えたことによつても明らかである。

(ロ) 小林巡査が被告人に手をかけた主観的意図は、被告人の母親に対する乱暴を制止又は予防しようとするにあつたことは疑がない。これは事柄の経過を淡々とみるならば明らかなことであるし、検察官が第五回公判廷において証人小林修に対して試みた熱心な尋問によつても、小林巡査が暴行の現行犯で被告人を逮捕する意図で手をかけたものであることは認められない。

二、そこで、小林巡査が適法な犯罪の制止ないし予防行為と理解して被告人を取押えようとし、被告人がこれを排除するため前示のとおりの格斗をしたことは明らかであるが、前に説明したとおり被告人の母に対する乱暴は犯罪とならないものであるうえに、小林巡査は制止ないし予防行為をすることができない時期に実力を行使したと認められる。以下に説明する。

本件において取り調べた証拠によると次の事実が認められる。

(イ)前に説明したとおり被告人が玄関脇の四畳半と奥の六畳間の境附近で母親に乱暴を働いた時小林巡査は玄関の四畳半の部屋の上り框に近接して立つてこれを目撃した。(証人小林修の当公廷の供述、証人小林修の当裁判所に対する尋問調書によると、奥の六畳の部屋の北隅洋服掛場前で被告人の母チヨウに対する乱暴が行われていた趣旨がのべられているが、母チヨウが立塞があつた場所は四畳半と六畳の間の境の襖の四畳半側であること、前記のように同女は右の二部屋の境の段に足をとられて倒れてからすぐに被告人と小林巡査の格斗が始まつたもので、倒れてからさらに被告人に追いすがつていないこと、被告人と小林巡査が格斗した場所が後記(ハ)の場所であること、小林証人ののべる場所の近くに天井から肩の高さ位低くかさ付の電球がたれているのにこれに何の損傷もなく(母への乱暴や小林巡査が被告人の体に手をかけた時期に)被告人が母に乱暴をする障害になつた模様もないこと、小林証人ののべる場所はその場から逃げ出すことを急いでいる被告人の逃げ道からはやや奥にそれた逃げるのに都合の悪い場所であることのほか、小林証人の証言の態度推移などを考え合せると、被告人が六畳の部屋の北隅で母に乱暴を働いていたことは疑わしいし、不自然でもある。証人小林修が故意に虚偽の証言をしているとまでは認められないが、その供述は錯誤があるものと認める。)

(ロ)そこで小林巡査は「おふくろさんに何をするのだ」といいつつ、急いで土足のまま部屋をつききつて行き、前記の乱暴をやめ裏口へ逃げるため六畳の部屋に足をふみ入れた被告人の髪に手をかけた。

(つぎに証人小林修の当公廷の供述、同証人の当裁判所に対する尋問調書には奥の六畳の部屋で被告人が母親を小突いているときに被告人の手を押えた趣旨があるが、被告人が母に乱暴を働いていた場所についてのべた諸事情のほかに、被告人には母に対して徹底した乱暴をする意図も余裕もない情況であつたし、引返して来てまで乱暴を加えたとか、てん倒した母親が起きて六畳間の奥まで被告人を追つていつたなどの事情は全く認められないことと、さらに被告人の乱暴をみた小林巡査は親に対する乱暴ということ自体でかなり強烈な印象をうけ、非常に急いで一図に被告人にとびついていつたとみえる当時の情況などを総合して考えると、納得できないのである。むしろ被告人の髪に手をかけた瞬間には真実は既に被告人の乱暴は終つていたにかかわず、事件後に小林証人が当時の事情を回想するに当つて、とび出していく前に視覚に強く残つた被告人の動作が被告人に手をかけた瞬間にもなお存していたように錯誤し、これが固定化したため右の供述となつたものと考える。

(ハ)小林巡査と逃げようとする被告人が六畳の間の北西側に倒れて前記〔二〕の第二の格斗などが行われた。

(ニ)小林巡査が被告人の髪に手をかけた時期には被告人が母チヨウに対して前にもました乱暴を加えるような切迫した気配態度がなかつた。

三、小林巡査は主観的には被告人の母に対する乱暴の制止ないしさらに乱暴を加えることを予防する意思で被告人に手をかけたものであるが、(イ)さきに説明したとおり、被告人の母に対する本件乱暴は罪とならないものである。(ロ)又、右の各事実から明らかなように、被告人を暴行罪現行犯として逮捕する必要はないし、小林巡査もその意図はなかつた。もとより暴行罪は緊急逮捕の対象となる罪でもない。(ハ)そして小林巡査が被告人に手をかけたとしてもその時期は乱暴が終了した後でかつそののちに一層強度の乱暴が加えられそうな事情もない。

小林巡査はどの点からも実力を行使することは許されないものである。しかるに小林巡査は(前記のような勢で)被告人の髪に手をかけ制止的行為に出たのであるから、右は適法な職務範囲を逸脱し違法である。違法な職務行為はたとい同巡査が警察法第二条、警察官職務執行法第五条の適法な職務行為と解してその挙に出たとしても公務の執行と解することはできない。違法な行為に対してはその相手方が正当防衛をすることができることは当然であつて、本件の場合被告人の身体・自由に対する急迫不正の侵害があるということができるのでで、これを防衛するため被告人が同巡査と格斗し拳銃を引張つたことはこれを正当防衛で罪とならないものといわねばならない。

〔五〕  以上の理由によつて第一の暴行、第二の公務執行妨害のいずれの点も罪とならないから、刑事訴訟法第三百三十六条を適用し無罪の言渡をすべきものである。

最後に附言したいことは、第一に、本件は小林巡査が余りに職務熱心であつたことと、出向いた本来の目的を一瞬忘れたこと、母親が小林巡査に対して語つた被告人の行跡が少々感情に走り大袈裟で、同巡査に不当な先入観を与えていたことのほか、小林巡査が独身で親子の情愛感情の機微に通じない等の面があつたことなどにより、突如眼前に展開された乱暴に対処する処置が柔軟性を欠いたために、本件が意外の展開をみせたものと当裁判所は認めるということである。第二に、被告人は、家庭内部の事件はすべて違法性を阻却するとか、母親に乱暴しても構わないなどと思い誤らないことである。第三に、被告人は最近職を得て真面目に働いているが、なお物の見方考え方には未熟な面が多いし、努力不足にかかわらずまん然実力以上に扱われたいと思うわからなさが見うけられる。大業も基礎から地道に築いて始めて達成されるものであることを自覚し、辛棒強く着実に努力して一人前の社会人として大成し、父の霊と母の期待に応えることを、当裁判所は希望するということである。

そこで主文のとおり判決する。

(裁判官 加藤一芳)

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